硝子戸

毎日の中で感じたことや興味を持ったことなどを書いていきます。

服飾文化講座「イヴ=サンローラン」④

今日ブログのアクセス数を見ると、ずっと0だったのが何人か訪問して頂いているのを初めて発見し、嬉しく思いました。ありがとうございます。

 

服飾講座の記事に関しては、②に画像のリンクを加えたり、③にサンローランの精神や依存症の問題に関する修正や加筆も加えました。また、サンローランとベルジェは、確かに二人ともディオールの葬儀に出席しているので遭遇こそしていたものの、実際お互いに面識を持って強烈に引かれ合った最初の出逢いは、ディオールの死後 初のコレクションから数日後に開かれた、ハーパーズバザーのディレクター主催のディナーパーティーだった(Musée Yves Saint Laurent Paris の Learn about Yves Saint Laurent「Pierre Bergé: The Meeting 」より)ということで、それも修正しておきました💦

 

講座では、全ての内容がさらっと流れてゆくので、あとから文章化するために色々な資料を読んで情報を補って行くことになるんですが、どうしても書いた後から知らない事実が分かったりして、そのため、しばしば過去に書いたものを直したりしています。ご了承ください〜 (>_<)

 

独立起業へ。ついに自分のお店を開く

さて、次々に襲いかかった理不尽なできごとで一時精神を害していたサンローラン。しかし、経済的な洞察力に優れたベルジェがパートナーになったことで、彼の人生には現実世界で戦って行くための「強さ」が搭載され、この後独立開業への道が一気に開けて行こうとしていた。

 

▼メゾンを設立した頃のサンローラン(左から二番目)とベルジェ(右端)

(出典 /gettyimages.com . )


まず、二人はディオール社に対してサンローランの一方的な解雇は違法だとする裁判を起こし、当時のお金で48,000ポンドを勝ち取ったという。やり手のベルジェは更にアメリカの実業家 J. マック=ロビンソンを説き伏せて700,000ドルもの投資を集め、1961年にはとうとう念願だった自分のメゾンを設立してしまう。場所はパリ16区のスポンチニ街。

 

この大胆でスピーディーな展開は、芸術家気質のサンローラン一人では到底なし得られなかったものだ。以降、経営やショウの切り盛りなど実務面はベルジェがすべて担当し、サンローランはその支えの中、雑事に惑わされることなくクリエイションに没頭することができた。

 

「イヴ=サンローラン」の名前はディオール時代、すでに有名になっており、1962年に開かれた第一回目のショウにはヨーロッパのみならずアメリカからもそうそうたるセレブたちがつめかけ、再びの大成功となった。

 

▼独立後初のショウが一部見られる動画です。講座でもこれを見せて頂きました。現在行われている、ブランドの広告塔としてのファッションショウとは異なり、本当に洋服を注文したい人が真剣勝負で見に来ていた頃のものです。狭い店内は音楽もなく、顧客たちは好き放題の感想をつぶやきながら食い入るようにドレスを見ています。後半はジャクリーン=ケネディの妹、リー=ラジウィル(当時、ポーランドの王子と結婚していたから?「プリンセス」として紹介されている)によるサンローランヨイショのお話や、女流作家エドモンド=シャルル=ルーによる彼の第一印象などが収録されています。リーさん以外の皆がサンローランは着にくいとか、脱ぎにくいとか言っているのがちょっと面白いです。既製服が徐々にファッションの重要なテーマになって来ていたこともうかがえます。


Yves Saint Laurent, 1962

 

えー、またしても長文化して来ているため、続きは次回に譲ります。それではごきげんよう