服飾文化講座12
引き続き、既製服ラインの誕生についてのお話です♫
デザイナーとしての想いとビジネスマンとしての野望と─サンローラン・リヴゴーシュ
さて、話は戻って1960年代。
人々の生活や服装観が急激に変化してきたことより、世の中のファッション業界に対する要求は、1着の完成された美的作品ではなく、個人が自分自身を体現するためのピースを豊富に提供してほしい─そういう風潮になってきたのは前回にも書いたとおり。
当然、一人一人の体つきに合わせながら丹念に微調整を繰り返し、大量の時間とコストを食うオートクチュールでは、この要求に応えられそうにない。経済的に発展した大量生産大量消費の世界で大衆が望んでいるのは、今の流行にぴったりでおしゃれな、安くて、売り場からすぐさま持って帰って着られてる、まさに「ウマい・早い・安い」の洋服だったのだ。
そんな1960年代当時、オートクチュール界は今よりまだずっと活況ではったが、経営を担当しているベルジェにとってみれば、オートクチュールのシーズンによってゆらぎやすい収入を、何か他の収益源で補わなければならないという考えもあった。
かつて同じディオール店で働いていたピエール・カルダンは、1962年、すでに百貨店へ「カルダン・コーナー」なるものを設け、自身のクチュール服の型紙や仕立てを単純化し、まとまった数を作ることで値段を何分の一にも抑えたコピー商品を売って大成功を収めていた。要するに、ラグジュアリーブランドによる既製服ラインの走りである。
▼先週紹介した、サンローランのメガネなしお写真を元に製作されたアンディーウォーホールの版画。こっちは単独のバージョンですね。手前のおじいさんは、サンローランのパートナー、ピエールベルジェ。パリにある彼の事務所で2015年の11月に撮影された写真。亡くなる2年ほど前のようです。
(出展:The Citizen/Hard-headed ‘angel’ behind Yves Saint Laurent empire dies aged 86 https://citizen.co.za/news/news-world/1645517/lifestyle-france-fashion-aids-berge/ )
世の中の、もっと幅広い層の女性たちに自分の服を着てほしい。オートクチュールが基本にありつつも、そこにちゃんと現代生活のリアルにが反映されたものを提供したい。
デザイナーとしての想いとビジネスマンとしての野望…そんな双方の願いを実現させるべく、ついに1966年9月26日「サンローラン・リヴゴーシュ」がオープンした。場所はパリ、セーヌ川・シテ島の左岸(リヴゴーシュ:Riv Gaucheとは左岸の意味)エリアで、ただでさえ、名門・ディオール出身のクチュール王子が既製服に手を出すなんてと驚かれたのに、出店した先は、なんと古本屋やギャラリーなどが建ち並ぶ若者の街。
▼サンローランリヴゴーシュのオープニング告知。かっこいいです!
(出展:On the Runway https://runway.blogs.nytimes.com/2011/03/04/ysl-and-the-spirit-of-the-60s/)
3時間待ちの行列
多くの人を驚かせた決断ではあったが、店はオープン当初から大繁盛しすぎて大変なことに。洋服を買いたい客が殺到して入場制限がかかり、店の外で3時間待ちの行列ができる異常事態になったのだ。
既製服自体は欧米では元々19世紀からかなり発達しており、ヨーロッパの一流メゾンで発表されたデザインは巧みにコピーされて、百貨店などで売りさばかれていた。けれど根本的に違うのは、サンローランやカルダンら一流デザイナーたちが、自分たちのクチュールラインのオリジナル作品を元に、自らデザインや考えの本質的な部分を忠実に取り出してプレタポルテに再現してくれるというところ。単に市場調査によってはじき出された「これが売れる」をもとに、表面的にコピーされただけのものとは似て非なるものだった。
あの1着100万円をくだらない作品のスピリットを、数分の一の値段で自分も直接身にまとえる…しかも仕立て上がりに何週間も待たなくていい。ブランドへの憧れと利便性を同時に満たしてくれる商品に、女性たちは殺到したのだ。
▼オープン間もない頃のパリのブティック(写真上)とその内部の様子(写真下)。この後、お店はフランチャイズとなり、NYやロンドンなど他の大都市にもオープンしていきました。未来的なインテリアですよね。
▼さて、当時のリヴゴーシュがどれくらいの値頃感だったのかはちょっとわかりかねますが、現在の公式オンラインショップの情報によりますと、例えば「スモーキング」のようなパンツスーツが欲しくてジャケットとパンツを買ったと仮定して、お値段 50万円台半ばくらい(ジャケット40万円ちょっと+パンツ 10万円ちょっと)のようです。オートクチュールのスーツが 200万円前後としますと、4分の1ほどで買える計算になります。(うーん…にしてもお高いっ!!)
(出展:The Shop Locator THE SHOP LOCATOR: Vintage 1966-1970. Yves Saint Laurent Rive Gauche boutiques. Paris-Nice)
1972年のあるインタビューで、サンローランは既製服に関してこんな話をしている。
「今の服装における利便性って何かって言ったら、スカート、パンツ、シャツ、セーター、コート、レインコートを持ってて全部ミックスしてしまうってことだよね…で、それってお金もそんなにかからないんじゃないかな。オートクチュールの世界では、何もかもが高価だけどね。既製服なら何着もの洋服をとっかえひっかえして遊べるんだ。オートクチュールでは無理なことだけど。」
“What is modern in clothes today is to have a skirt, pants, shirt, sweater, coat, and raincoat and to mix everything…[but] the parts of the mix cannot be expensive. In couture everything is expensive. With ready-to-wear you can play around with the many parts of clothes and change them. In couture you can’t play with clothes.”
(出展:Yves Saint Laurent, quoted in 1972 interview transcript, Folder 16, Box 10, The Nina Hyde Collection, FIT Special Collections Library.)
▼おのおの個性を表現したコーディネートで街を歩く。サンローランと彼のデザインしたドレスをまとったモデルたち。自由でリラックスした雰囲気が漂う。Jean-Luce Huré による写真、1972年4月25日。
(出展:Yves Saint Laurent + Chanel http://exhibitions.fitnyc.edu/blog-ysl-halston/2015/04/16/yves-saint-laurent-chanel/)
クチュールラインがあくまで主であり、既製服ラインはその流れを受けた妹版…そういった基本は確かにあったが、リヴゴーシュは実際、パリコレに出す前のアイデアを試す実験場にもなっていたようだ。1970年代に発表されたロシアンコレクションやシノワズリのコレクションも、いったんリヴゴーシュでテストした後にパリコレで発表されている。オートクチュールの世界では、客がファッションで気楽に遊べないだけでなく、デザイナーの方でも発表に対する重圧がありすぎて、自由気ままにクリエイションを楽しむわけに行かなかったのだ。
もしもオートクチュールに未来があるとすれば─ 既製服から、ライセンスビジネスの時代へ
世界に名だたるパリ一流メゾンによる、既製服ビジネス。そしてその大成功。それは当時の大きな出来事だったが、まだそこにはサンローランやカルダン本人といった、デザインや世界観を直接率いるリーダーが存在しているビジネスだった。
しかしこの後、ファッションビジネスの世界はさらに急スピードで変容を続けていた。やはりカルダンが先駆者となった、ライセンスビジネスの登場である。
こうなってくると、メゾンのロゴマークとイメージを使う権利だけが売買され、あとはその権利を買い取ったブランドホルダーが、そのイメージにそぐわぬようマーケティングをし、付加価値をコントロールしながら、ロゴ入りの商品を売っていく。
─もしもオートクチュールに未来があるとすれば、それはもはやデザイナーなんて存在しない、
香水や大量生産のアクセサリーを販売するための、ライセンスビジネスになるのではないか。
彼もそういう思いを抱いていたようで、現代社会の大量生産大量消費をテーマにしていたポップアートの芸術家、ウォーホールのためにポーズをとったというのも偶然ではなかったんじゃないだろうか。
(出展:icon-icon.com / The Portrait of Yves Saint Laurent by Andy Warhol
http://www.icon-icon.com/en/design-art/portrait-yves-saint-laurent-andy-warhol)
(出展:Evolver Warhol Gallery.com https://revolverwarholgallery.com/canadas-largest-andy-warhol-exhibit/)
実際ベルジェも既製服ビジネスだけにとどまらず、洋服で確立した強力なブランド力を背景に、香水やバッグ、アクセサリーと次々に取り扱い商品を広げ、グループを大きくしていった。
そして彼らも1992年、ブランド運営に2人の影響力をしっかり残す形でイヴ・サンローランの商標を売却し、大きな富を得ている(しかしベルジェはこのときインサイダー取引を行ったとして罰金の支払いを命じられている…)。その後も商標の持ち主は変わったが、サンローランは2002年春までデザイナーとして仕事を続け、ベルジェも彼の引退まで一緒に社長にとどまり、寄り添い続けた。
富の行方
彼らの稼ぎ出した富は、2人のアートへの情熱の対象であるアート作品や古書の収集など、様々な形で財産をなした。特にサンローランの死後、2009年に売却された2人のアートコレクションはなんと3億ユーロもの値をたたき出し、大きな話題を呼んだ。かねがねから芸術やアーティストたちに対して理解を示し、同性愛者の権利推進に力を貸していた博愛主義者のベルジェだったが、彼はそれをほとんど全額エイズ研究のために寄付している。
そして値のつけようのない、もうひとつのかけがえのない財産─
天才・イヴ=サンローランのすべての功績と、伝説となった彼らの人生のメモリーを保存する活動も2人の引退と同時に、ベルジェ財団が設立される形で始まった。
引退から5年後の2007年、サンローランはついにレジオンドヌール勲章を授与されたが、翌2008年6月1日、パリの自宅で息を引き取った。71歳だった。一方、ベルジェの方はファッション界引退後も政治や文化の世界でパワフルな活躍を続ける傍ら、ライフワークとして財団のプロジェクトを推し進め続けた。
そして2017年、改修されたかつてのメゾンでとうとう Musée Yves Saint Laurent Paris が開館。サンローランの死から約10年、人生の集大成だった博物館オープンのこの年、ベルジェも86歳で亡くなった。プライベートでの恋人関係は、既に1970年代後半に破綻していた彼らだったが、無二の親友・パートナーとして、最後の最後までサンローランを誠実に支え続けた人生だった。
(出展:https://museeyslparis.com/en/foundation)
財団はパリ以外に、マラケシュにも Musée Yves Saint Laurent Marrakech をオープンしている。マラケシュはモロッコにある2人が愛した別荘のあった場所で、「色の魔術師」といわれた彼は「マラケシュが私に色を教えてくれた」と断言しているほど、クリエイションに大きな影響を与えた土地だ。
別荘自体もJardin Majorelleとして、誰もが訪れることのできる施設になっている。
(出展:http://jardinmajorelle.com/ang/)
資料の保存展示以外にも、若手アーティストのパトロネージュなども行っている。
さて、いつも通りものすごい長文になってきているので今日はここまでです。
これで一応、サンローランのお話は終わりたいと思います。なんだか、本当は文章量なんかももっといろいろ配分して考えるべきだったと思うのですが、実際書いてみるとよくわからず、だらだらと長くなってしまいました(笑)が、おつきあいいただきました皆様、今まで本当にありがとうございました♫
私もその内パリやモロッコに行ったら、是非訪れたいですね。
それではごきげんよう。
服飾文化講座11
そして最後は、今まで紹介してきた1960年代におけるサンローランたちの活躍と、服装の民主化の流れの中で必然的に起こってきた出来事、既製服ライン「Saint Laurent Rive Gauche」の誕生についてです♫ まずは、オートクチュールで洋服を作るってどんな感じ?というところから始めます。
そもそもオートクチュールっていくらぐらいするの?
オートクチュールに対して既製服が出てきたと言うけれど、そもそもオートクチュールの洋服というのは、一体いくらぐらいするものなのか、どれぐらい時間がかかるものなのか?それがわからないと両者の比較も難しい一方、一般市民の感覚ではちょっとわかりづらいものだと思う。
古い資料で恐縮だが、手元に1992年発行の「装苑アイ No.7 スーツ /文化学園ファッションセンター編集」という雑誌があり、そこに宮内彩さん(ファッションジャーナリスト、大内順子氏の娘さんに当たる方)が「自腹を切って」ディオールでスーツをオーダしてみたという、とても勇敢な企画が載っていたので紹介してみたい。
順序としたら、まずはショウを見学し、自分の気に入った作品を選ぶ。その際、自分の着やすいように多少デザインを変更しても可。決まったら、次にシーチングという綿の試作用生地で、自分の体に合わせた型を(写真 真ん中)を作ってもらい、さらにもう一度店に足を運び、今度は実際の生地でまた同じことを繰り返す(要は仮縫いを2回行う)。この時は8月のヴァカンスが1ヶ月挟まっていたということもあり、出来上がって来たのは注文から2ヶ月後。お値段は25年前の相場で約220万円だったそう。
顧客と言われる人たちは、このレベルの品物を1シーズンにだいたい10点ほど注文するとか。4、5点はスーツで、昼間のドレスが1点。2、3点のカクテルドレスに、1、2点はイヴニングといった感じだそう。まぁだいたい、1シーズンの洋服代に数千万円がかけられる人々、ということになる。ちなみにこのクラスのお客になると、自分サイズの人台が店に置いてもらえるため、自分が仮縫いに行く必要もない。東京や香港に住みながら、動画でショウをチェックした後、メールやファクシミリで注文することも可能というわけ。
地球上の全女性 35億人中の2〜5,000人 ─ 選ばれし者たちの世界
もうちょっと最近の記事を見てみよう。
ウェブサイト、Style Caster.comによると、夜会などに着るドレスなどの制作にかかる時間は800時間以上。お値段は普段に着るようなアイテム(先述のようなスーツとか)で、やはり10,000ドルから。極端な例を挙げると、2004年の「スパイダーマン2」のプレミアに出席した歌手 Samantha Mumbaのダイヤがきらめく衣装はなんと約900万ドルともいわれ、基本的にお値段は青天井ということがわかる。まぁこれはコレクションで発表されたもの、というよりはこの一夜のための特注品だったと思われるが。
そしてランウェイの上を歩くこれらの衣装を実際に着られる女性は、世界経済の状況によって変化はあるものの、だいたい現在地球上に2,000人から5,000人いると言われている。途上国の発展によっては新しい富裕層が出現してきたりもするので、一概に減る一方とも言えないが、全人類約70億人の半分が女性だと考えても、35億分の5,000人…
いかに「選ばれし特別な女性たち」だけのための世界か、これでおわかりいただけると思う。
▼一夜の衣装に約9億5千万円ほど(2004年当時、だいたい1ドル106円程度と換算して)を投じたというSamantha Mumba。確かにこれは、スパイダーマンにぴったり。蜘蛛をイメージしたハンドアクセサリーにも注目!褐色の肌の上で、白いダイヤがより映えますね。でも実際、向こうの芸能人が公式の場で着るこういった衣装って全部自分持ちなのでしょうかね?よくわかんないんですけど。
(出展:Digital Spy http://www.digitalspy.com/showbiz/fashion-and-beauty/feature/a564016/is-this-the-most-amazing-spider-man-premiere-dress-ever/)
服飾文化講座10
1/2から、更新にずいぶん時間があいてしまいました (´o`;
今日ふと、久しぶりに自分のブログを見たら、なんだかあまりにも味気なくて寂しくてびっくり。
「もうちょっと、なんか華やかさとか賑やかさががほしい…!」
そう思いつつもブログのデザインをいじるための知識もないし、いまはちょっと文を書くだけで精一杯。近いうち、まとまった時間ができたら集中して勉強したいなと思います。
娘と同じものを着たい母親(大人)たちのために、流行の上品な翻訳版を。
▼おそらく30代の頃のサンローラン。ちょっと珍しい、いつもの黒縁めがねなしのお姿です。実はこの写真、アンディ=ウォーホールの作品制作のために撮られたポラロイドのうちの1枚で、このあとあの有名なキャンベル缶よろしく、4枚組の版画作品になっております。
(出展:Fashion and Photographers https://fashionandphotographers.wordpress.com/2016/04/09/yves-saint-laurent-revolutionized-fashion/)
「かつて、若い娘は自分たちののママと同じような格好をしようと夢中だった。
今では逆に母親たちが、なんとかして娘おしゃれに近づこうとして、
娘たちのセンスを取り入れるのにけんめいである。この変動の中で、
私たち若いデザイナーは現実的な面でのモードのリーダーでなければならないし、
私たちの仕事は、服を作ることを通して時代の証人になることだと思う。」
(装苑1966年10月号/文化服装学院出版局「特集・パリモード」より、サンローラン自身の言葉)
「…サンローランは首までオートクチュールの世界につかりながら、
絶えず現実的に一歩に進めていく、パリモードの推進者と言える。」
(装苑1968年10月号/文化服装学院出版局「特報!’68 '69 秋冬パリ・コレクション」より、サンローランに対する批評)
まず、大人たちの世界にも若者たちの現代的で合理的な服装が広がって行くのに、冒頭でサンローランが語っているとおり、彼以外にもピエール=カルダンなども含めた「伝統的なクーチュリエの実力とリアルタイムの感覚両方を併せ持つ、優れた若手デザイナーたち」が次々にストリートの流行や、工業・宇宙といった時代のエッセンスを上手にサンプリングし、それぞれの手腕で「誰もが着たい」と思うようなハイファッションに落とし込み、それが広く社会に受け入れられていく段階があった。
最終的にはロイヤルファミリーをはじめとするスノッブたち、いい年をした大人の女性たちまでがミニやパンツであちこち闊歩するようになったことで、社会的にもいつの間にやら公式なパーティやレストラン、高級ホテルでもすまし顔で着用OKになっていった。
また、服装の合理性はパンツやスポーツウェアなどの動きやすいアイテムの普及のみならず、若い彼らはオートクチュール特有ともいえる「お高すぎる価格の問題」にも真っ正面からメスを入れていった。これについては、また後に機会があったら調べて書いていきたいと思う。
まぁだいたい、この辺りまでは先週までのお話と被るところ(前置き長い…)。
そう、60年代に「時代や流行の華麗なる翻訳家」として、伝統のオートクチュールに合理性や今の息吹を吹き込んだのはなにもサンローランだけではなかったし、もっととんがった活躍をした人たちもたくさん存在したのだ。しかし、時代を賑わしたデザイナーたちや作品の多くは、60年代という一つの枠の中に埋没していき、やがて忘れられていった。
自分を表現するための道具に、個性も時代性もいらない
多分、60年代に多く活躍した人々の中でも、特にサンローランの名前が長く生きながらえて「現代の服装の基礎を作った人だ」と言われやすい原因は、彼が「1から全く新しいものを考え出すタイプ」というよりは、「既存のものを自分流にアレンジし直すのが得意なタイプ」の才能を持っていたということ。
あとは自身が確かな技術を持った生粋のテーラードであると同時に、先述の「首までオートクチュールの世界につかりながら」という表現からもうかがえるように、パリ・オートクチュール名門中の名門「クリスチャン・ディオール出身」という、正統派でわかりやすいルーツの持ち主であったこと。
しかも、デザインのために毎回ピックアップされるアイテムやテーマは幅広い上に、すでに歴史の中に長く存在し、無名の人々の間で愛用されていた匿名性の高いものも多かった。
安心や伝統といった基礎に裏打ちされたモダンさ。普遍性の高い、おなじみのアイテムの上で輝くサンローランらしさ。革新的なのにシックでぶっ飛びすぎない、古いのに新しい。この絶妙に心地良いバランス感覚、ミックスの感覚こそ、彼のアイデアが時代を超えて長く愛され、様々な形で生き延びていけた最大の理由だったんじゃないかと。
(出展:LUXE sup de pub http://luxe.supdepub.com/index.php/yves-saint-laurent-le-smoking-the-first-female-tuxedo)
アンドレ=クレージュやマリー=クワントのような「60年代の若さ爆発!」的偏りもなく、カルダンのようにすべてが革新的すぎるわけでもない。個性や時代性が立ちすぎる作品は、却って時間の中に埋没していってしまうのだ。(ただ、当然皆様すごいデザイナーな訳で、作品として眺めるには大変楽しく、かっこいい洋服が一杯なのです。)
サンローランの作品の中にも、もちろん豪華なソワレや個性的なドレスは数多くあり、それらは時代のワンシーンや社交場をにぎわしはしたが、広く一般に受け入れられてスタイル化したのはコートやスーツ、パンツといった日常的なアイテムがほとんど。
これらのアイデアは、もちろんサンローランのメゾンやプレタポルテで売られるオリジナル作品として何度も焼き直しされながら生き延びたが、一方で人気あるものは街中でもコピーが増殖するのは当然のお話。そしてそれらのアイテムたちは何度も焼き増しが繰り返される中で、もはやいつ誰が作ったのかさえもわからない、どこにでもある、誰でも1着は持ってる定番服、誰もが1回は着たことの服へと昇華し、最終的には人混みの中へ完全に消えていった。こうして、個人名も時代性もまったく消え去った彼の作品たちは、代わりに永遠の命を得て、21世紀に入って20年近く経とうとしている今でも生き続けているというわけだ。
さらに60年代も半ばになってくると、洋服が1着の中だけで完結している美しさやシルエットで売買される時代が終わり始めた。売り手側の提案する一方的な美意識をそのまままとうのではなく、コーディネートで売る時代になってきたのだ。
─洋服は自分を表現するための、実用的で自由な道具。
まず社会の服装に対する認識の変化、そして表現のために必要な道具立て…現代の定番アイテムやスタイルの確立と、それらを自由に組み合わせて自己表現できるコーディネートの手腕。
ようやくこの段階になって初めて、平日はパンツスーツにトレンチコートをひっかけて仕事場へ急いだり、休日はファーコートにジーンズのミスマッチで友達と遊びに行くような現代女性の服装の基礎ができあがったことになる。サンローランはシャネルが戦前、とりあえず一部の女性たちに与えた服装や生き方における自由の「まさに普及版の時代」に立ち会い、「実際にその背中を押した人」になる─と講義をされた先生も話をされていた。
サンローランのお話をしていると、知らない間に現代の服飾史のお話になってしまう…うーん、確かに!さて、またもやすごい長文化してきてしまったので(笑)今回はこれでごきげんよう。次回はもしできたら、彼のプレタポルテ部門、イヴサンローラン・リブゴーシュのお話ができたらと思います。
服飾文化講座⑨
みなさま、明けましておめでとうございます。
0から始めたブログに、いつの間にやら二桁のお客様が来ていただけるようになり、心から感謝しています。何十万プレビューで当たり前、というすごいブロガーの方達には遠く及びませんが、マイペースに頑張って行きたいです。今年もよろしくお願いいたします。
政治は変えられなかったけど、服装観は変わった
結局、若者たちは世界をすぐには変えることはできなかったが、その代わりに自分たちが主役の新しい文化の世界を持つようになり、社会の中に堂々と出しゃばるようになっていく。そして、そんな新しい世界の服装に社会を統制するためのルールやけじめは不要だった。
60年代の初めごろまでは、社会の秩序を保つための線引き以外に、個別のアイテムや素材にも、過去のルーツを根拠にした偏見や貴賎の感覚がいちいちつきまとっていた。
けれども若者たちは洋服を、そういった特定のサインを持たない、今の自分をプレゼンするためのただの道具としてしか見ていなかった。洋服を着る上で考えるべきことは自分の社会的な立場ではなく、着心地が良くてお洒落で、今の自分の感覚にマッチしていること。
もっと欲を言えば、無理のない値段であることだ。特に女の子たちはそれが男物だろうと軍モノだろうと労働着だろうと、はたまた膝の出る子供服みたいなスカートだろうと、自分たちの着たいものや着やすいものを自分で選んで勝手に着るようになった。この世界では、一足早く現代の私たちと同じ感覚が芽吹いていたと言える。
とるに足らない亜流が、主流の世界をひっくり返した
ただ60年代初期、英国のストリートで自然発生したという女子たちのパンツやミニスカート、男子のモッズ的服装は、フランスに入って来た後も、街のやんちゃな連中がいきがってるだけの、エキセントリックで、場合によっては汚らしい印象さえあるもの。洗練されないものとしてとらえられていた。5月革命が最初、一時的な「子供の遊び」ととらえられ、大人たちからしばらく放置されていたのと似ているかも知れない。
散髪に長期間行かなくてもいい男子の長髪に、ディオールのニュールックとは正反対、最低限の生地だけで縫い上がるミニスカート…いってみれば街ではとんでもない「貧乏ルック」が蔓延中(わたくしたちには関係ありませんが)、という捉え方だった。
しかし学生運動などを通じ、若者たちの文化が幅を利かせるようになっていたこの時代、貧乏ルックの若い魅力は確実に底辺のストリートから上流階級に向かって逆流を始め、最後には若いプリンスやプリンセスまでがそれ習う始末だった。政治の世界はさておき、服装の世界では確実に階級や若者たちの逆襲がまんまと成功をおさめていたのだ。
▼非常に珍しい??ミニスカート姿のエリザベス二世(車から降りている左側の女性)。右は妹君、美貌のマーガレット王女。お二人の母君、クイーンマザーを訪ねた際の写真。1964年撮影。
(出典:FRASH BAK
https://flashbak.com/the-history-of-the-mini-skirt-in-14-photos-volume-1-10739/)
▼こちらも英国王室の方々。右端、黄緑色のクイーンマザー以外のお二人(ピンク:マーガレット王女、ブルー:アン王女(エリザベス二世の長女で、チャールズ皇太子の妹君にあたる))は膝小僧を出したミニ姿。
(出典:ROYAL HATS
https://royalhats.wordpress.com/2014/07/01/historical-hats-the-prince-of-wales-investiture/)
女王陛下やプリンセスまでがミニをお召しになる。
そう、確かにこれは一大旋風だった。
でも、これだけでは単なる特定アイテムの一時的な熱狂的流行に過ぎなくなってしまう。後半はかなり固定化してしまったモッズも最初はそうであったように、60年代「スタイル」の肝はあくまで、自由な発想で個人を表現するという普遍的な部分にあったのだから。
服飾文化講座「イヴ=サンローラン」⑧
1960年代…のお話でよく出て来る5月革命って何かしらべてみた。
そして、先週話題にしたシャネルたちが活躍した時代から少し下って1960年代。現代を生きる私たちにしてみれば、まぁ、この辺りからはさすがに自由でポップだったんじゃないの?…というイメージがあるけど、実際にはこの頃になってもまだ、当時のフランスの首相、シャルル=ド=ゴールを始め19世紀生まれの人々が文化や政治の世界ではけっこう普通に現役。
そんな保守的な「大人たち」が前世紀の美意識で作った壁が、まだまだ社会のあっちこっちに残っていた。そんな時代にあって若者とはただの半人前の存在であり、政治や文化の主役どころか「とるに足らない存在」としか認識されていなかったようだ。アメリカでは、黒人なんかもがここに加わっていたかもしれない。
こんな風に世の中はいまだはっきりと上と下、大人と子供、男と女、白と黒、公と私という感じで物事が厳密に区別されてはいたけれど、 1920年代と違うところは、工業や情報網の発達がさらに押し進められて日常生活の隅々まで、身分の分け隔てなく物や情報が行き渡るようになったところだろうか。贅沢や便利さ、高等教育の恩恵を受けられる人がぐっと増えて、戦前に夢見たような生活のいよいよ普及版の時代がやってきたのだ。世の中は空前の豊かさを体験していた。
でも、それも60年代も半ばに入ってくると、資本主義の発達で公害や新しい格差が生まれて来ていたし、ベトナム戦争の泥沼化も深刻な問題になっていた。
「大人たち」の作った戦後資本主義社会が、こうしてすこしづつ曲がり角を迎えていくのと平行して、その足下では「世の中でとるに足らない」「半人前」とされていた人々の不満が世界中でぱんぱんに膨らみつつあった。
そこへ1968年の5月、ド=ゴールの教育政策やベトナム戦争への不満などを持ったパリ大学の若者と警察隊の衝突事件が起こる。この時、警官隊が若者たちにふるった暴力への批判がきっかけとなり、フランスの労働組合や左翼系政党など、なんと世論の多くが一気に学生たち側に組みするという画期的なできごとが起こった。
そして学生に続き、今度は労働者たちが次々に団結してゼネストを起こし、職場を占拠して政府や資本家に待遇向上を訴え始めた。この団結と権力批判の動きは次第に地方にまで広がり、最初の暴動からわずか10日ほどでフランスの全機能がほとんど停止する事態に追い込まれた。
これがよくいわれる5月革命で、実際には「五月危機」と言った方が正確みたいだ。
完全に占拠されたバリケード内の解放地区や大学内では、お祭りムード。音楽が奏でられる傍ら、若者や大人たちが入り交じり、これからの世界についてあちらこちらで議論がかわされた。若者たちは自分たちの行動や主張が全フランスを巻き込み、権力を揺るがした事実に心底酔いしれた。
それでも最終的にはド=ゴールようやく重い腰を上げ、軍の圧力を背景に労働組合の希望を汲んで懐柔してしまい、学生たちと労働者たちがばらばらにされてしまったのだ。こうして社会は再び秩序を取り戻し、「大人たち」の手に戻って行っただけだった…
この動きはベルリン、ロンドン、ローマといった欧州の大都市にとどまらず、米国や日本でも同時多発的に起き続け、多くの若者たちが「自分たちが世界を変えられる」革命を夢見、そして結局は挫折を味わっていった。
▼これがわかりやすかったですね!よく聞く割に知らなかったので。
服飾文化講座「イヴ=サンローラン」⑦
サンローラン以前の世界にだって、新しいことに挑戦していた人も一杯いたけど…
…2回続きでサンローランの色々な作品を見ていく中で、
「サンローランが男物のパンツスーツやらスポーツ着、労働着を女性服に取り入れたっていうけど、でもシャネルとか、戦前からそんなことしていた人一杯いたんじゃないの…??」
っていう疑問も同時に出てくる。
確かにその通りで、シャネルは肉体労働をする人やスポーツアイテムに使用されていた伸縮性のある素材、ジャージーでドレスを作って提案していたし、本人も恋人の男物を借り着したりパンツを履いて出かけるくらいのことはしょっちゅうだったみたいだ。
でも残された当時の写真を見る限りでは、それらはいつだって田舎の別荘地や海でレクリエーションをしている時、身内でのパーティーの余興といった、私的なシーンがほとんどだったということがわかる。最初に提案したジャージーのアンサンブルも、第一次世界大戦中に都会から避暑地に逃げ込んできた女たちのためにデザインしたもので、やっぱり最初念頭にあったのは戦時中の田舎での生活だ。
じゃぁ、アメリカの女性たちはどうだろう?1920年代や30年代の、男前な感じで売れっ子だった女優たちなんかは。
▼キャサリン=ヘプバーン。彼女の作品、実は全く観たことがないのですが (´o`;、男女を通じ、オスカー最多の4回受賞という、突出した才能の女優さんだったそうですね。ただ彼女は仕事人としてすごいだけでなく、その生き方も常識にとらわれないことで有名だったひとです。彼女も戦前から普段着にパンツを愛用していました。
(出展 / HANEY
http://www.shophaney.com/blog/2014/03/24/dress-like-fashion-icon-katherine-hepburn/)
▼マルレーネ=ディートリッヒ。この人も「百万弗の脚」とか言うわりに、脚を隠すパンツのイメージが強い人ですよね。下は映画「モロッコ」の撮影風景のようです。肝心の作品は…やはり古すぎてほとんど観たことがないんです(笑)!!ファッション関係の写真や映画のスチール写真ばかりをたくさん見てきて憧れを募らせていた…私にとってはそんな人です。普段着でもパンツ姿の多い人です。
(写真 / Eugene Robert Richee 1930)
▼親しい友人たちとの食事中のシャネル。左から、ロシアの作曲家ストラヴィンスキー、彼の妻、シャネル。ストラヴィンスキーは一時、シャネルに想いを寄せていたといいます。この時代、ロシア革命の影響でパリには多くのロシア人たちが逃げ込んでいて、音楽、舞踏、絵画など、文化も大きな影響を与えました。
…うーん、この3人の姐さんたちに共通するのは、みんな男顔っていうことですかね。
(出展 / Ellahoy)
▼1930年代頃でしょうか?これもシャネル。背後のデラックスな自動車からするに、ウェストミンスター公爵の恋人だった頃でしょうか。「ラッパズボン」という感じのかなり裾広がりのものです。
(出展 / Diseño de Moda )
https://www.dsigno.es/blog/diseno-de-moda/la-historia-de-una-disenadora-francesa-coco-chanel
…これが実はだめだった。
女性がパンツを履くことだけに絞ってみても、マルレーネ=ディートリッヒは1933年5月、男装でブロードウェイの劇場に行った際入場を断られている(出典/「Desexualization in American Life」)し、キャサリン=ヘプバーンもパンツでロンドンの高級ホテル Claridge’s に入ろうとしたが、Claridge’sでは1951年当時、ロビーで女性がパンツ姿でうろつくことが禁止されていた。これを告げられた彼女は、わざわざスタッフ用の通用門から入店したという(出典/Seamwork Magazine “Women in pants” )。
女性のパンツ着用はリゾート着やスポーツ着、スクリーンの衣装や勇敢な女性たちの昼間の街着…とじわじわ広がりつつはあった。しかしそれでも
─女性が男性の真似事をするのははしたないこと
社会には厳然たるルールが存在し、特にフォーマルな場所においては相手がいかなるスーパースターであっても、間違った格好の人は店からつまみ出されるくらい当たり前だったことがうかがえる。
こういった線引きは「男と女」だけではなく、「上と下」「大人と子供」「白い人と黒い人」「公と私」もしくは「時間軸」といったありとあらゆる形で物事が厳密に区別され、社会の秩序がきっちり守られるべく、混同は許されなかった。
1920年代30年代は、自由と民主化への前哨戦の時代
結局シャネルの歴史的な評価は、こうしたまだ困難な時代にあって、女性たちに「とりあえず自由のきっかけを与えた人」ということになるのだという。
それでも、この1920年代や30年代には階級闘争による革命が起きてソビエト連邦が建国されたり、アメリカで女性参政権が認められたり、日本でも全国水平社の部落解放運動が起きたり…といろいろな場所でみんなが分断されたラインを超えてひとつになっていくような運動がたくさん起こっている。
建築やデザイン、アートの世界でも、ものの本質や普遍性の部分、道具であれば機能性の部分をもっと純粋に取り出して造形化するモダニズムが盛んに実験を繰り返していた。
まぁ、参政権や国が新しく生まれてしまうくらいの出来事はさておき、少なくともファッションの世界においては、シャネルらがクリエイションした自由や理想形は、ごく限られた特権階級の女性たちしか体感することができなかったのだ。そう、そういう意味では、あの閉鎖的なディオールのドレスと何ら変わらなかった。(ただし、彼女は自分のアイデアが勝手に盗まれ、街に出回るのを平気で許していたため、そのスピリットはコピーの形で普及し、普遍化した経緯がある。)
服飾文化講座「イヴ=サンローラン」⑥
さて先週に続き、サンローラン全盛期の代表的コレクションを紹介して行きたい。最後はこちら。
1976年 ロシアンコレクション
▼サンローランはロシアが好きだったと言われています。彼が最初にロシアにであったのは、まだでディオールのチーフデザイナーとしてキャリアをスタートしたばかりの1959年。クリスチャンディオール社に当時のソヴィエト連邦貿易省からモスクワでファッションショウを開いて欲しいと公式な招待があり、彼は発表したばかりのトラペーズラインのドレスなどをを引っさげ、6月にゴーリキー公園で作品を披露したのでした。これにより、サンローランはディオール社の名の元にではありますが、西側世界で初めて、ソヴィエトでファッションショウを開催したデザイナーとなったのでした。…とすっぱり書きたいところでなんですが、実は他の記事によると、1965年に既に英国のデザイナーグループが同じゴーリキーでショウを行ったという記録もあるんです。うーん、単独のメゾンでここまでやったのは彼が初めてだったということでしょうか…
ショウの他、モデルたちはフォトセッションのためにグム百貨店、赤の広場、地元市場とあちこち散策し、市民と交流を持ったようです。とにかく、どこへ行っても人、人、人!モスクワっ子たちの反応が面白いですね。
(出典 / すべて写真:Howard Sochurek for LIFE Magazine)
▼当時のモスクワの写真がもっと見たい方はこちら!
▼残念ながら、サンローラン自身の向こうでの写真が見つからなかったのですが、彼はこれを機に、ディアギレフのロシアンバレーなどでもともと持っていたロシア文化への興味がさらに深くなり作品への影響も増したと言われています。それが最大限に発揮され、ロシア一色になったのが、1976年のロシアンコレクションです。
これはショウのためのデッサン。彼はディオールと同じく本当に絵が上手ですよね。ただ、ディオールはデザイナーとしてすばらしいデッサンを描くのみだったのですが、サンローランは本人が生粋の服作りの職人、テーラードだったんです。
▼サンローランは色の魔術師とも呼ばれていましたが、シックな中にも冴えた色彩が美しいですね。この時代、サンローランに限らず世界的にこういう大きなシルエットのドレスやマントが流行していたようです。
▼こちらはもっとエスニック色の強いライン。右側のおかっぱの女性は、我らが日本代表のスーパーモデル、故・山口小夜子さんでしょう。
(出展 / 3枚ともすべて:Не иди по следам древних, а ищи то, что искали они.)
https://myllirina.dreamwidth.org/333276.html
▼1973年には世界的バレエダンサー、マイヤ=プリセツカヤの「病める薔薇」のコスチュームもデザインしています。
最後のまとめはこの動画で。
さて、一応サンローランの40年のクリエイションの中から、代表作品の紹介は一応ここまで。
2002年彼は71歳でオートクチュールメゾンを閉鎖し、引退した。後はアパレル部門として既製服ライン「イヴサンローラン・リヴゴーシュ」と、化粧品部門「イヴサンローラン・ボーテ」が残されることになる。
同年1月にパリで開かれた最後のコレクションは、まさに彼の長い長いキャリアの一大回顧展の様相となり、当時のスーパーモデル、往年の顧客やファッション関係者が一堂に会した壮大なものとなった。
▼とーっても長い動画ですが、ショウの様子はこちらからご覧になれます。講座でも見せて頂いたものです。音楽も楽しいですが、スーパーモデルファンだった私は、懐かしい彼女らの姿にも興奮してしまいます。ショウはもちろんピーコートからスタート。今日まで紹介した代表的な作品も網羅されています。
さ、今週は3時間ほど作業したものを全部消してしまうという大失態を犯したのですが、なんとか復旧できました。それではみなさま、ごきげんよう、さようなら。