硝子戸

毎日の中で感じたことや興味を持ったことなどを書いていきます。

服飾文化講座「イヴ=サンローラン」③

今回からは他サイトのリンクも活用してみることにしたよ。

 

若さや時代の流れを一生懸命取り入れた


さて、ディオールの主任デザイナーとして衝撃のスマッシングデビューを果たしたのが1958年。初めの内は顧客や経営陣からも絶賛の嵐で受け入れられていたサンローランだったが、何度かコレクションを経るにつれ、次第にセーターのようなニットの袖がくっついたミンクのコートや、クロコダイルで作ったライダースジャケットなど、最高の素材を使いながらも若く、カジュアルな要素の入ったアイテムが発表されるようになって行く。今までのディオールなら考えられなかったような新しいラインの誕生だ。優雅全盛の1950年代がちょうど終わりを告げ頃だった。

 

▼ニット帽+なんとニットの袖が合体した毛皮のコート。

 のほほんとしたアウトドアのシーンで着られている。でも足下はパンプスでエレガントに!

 (出典/フレンチヴォーグ 1960年10月号より 写真/Henry Clarke)

https://i.pinimg.com/originals/d2/d8/95/d2d895a112e33d82ea767bba689cea3a.jpg

 

▼1960年秋冬に発表されたライダースジャケット

 今見ると全然ハードな感じもないし、普通にかわいいのだけど(笑)

doyle.com

 

モードの鉄則を破る

しかしそもそも、モードとは上から下へ降りてゆくものであり、流行はいつだって文化の中心である上流階級で生まれて来た。それらを都会の市民たちがこぞって真似た後、今度はようやく旅行者の見聞や手紙、印刷物などを通じて、行商人が運ぶ古着と一緒にゆっくりと地方へ広がって行く…。

 

17世紀のある流行スタイルがそのまま民族衣装として田舎に定着してしまっている例はよくあることだし、18世紀の旅行者の手紙には、真っ白におしろいを塗って仕事に精を出す木こり、パニエの入ったドレスで畑を耕す娘の姿などが、驚きと軽蔑を持って描写されていたりもする。

 

そう、いつだって下々の者が上流を真似ることがモードの鉄則であり、間違っても上流の者が通りにあふれる若者や労働者の真似ごとをするなんて言語道断だったのだ。しかしサンローランがキャリアをスタートしたこの時代、長い間絶対的だったこの流れが徐々に変わろうとしていた。まだ20代前半のサンローランは、こういったフレッシュな空気を取り入れたアイテムを一生懸命提案していたものの、それに対する保守的な顧客からの反応は冷ややかなものだった。

 

 

やりたいことをやってただけなのに、会社から抹消された!


コレクションがカジュアル化していくことに懸念を示していた経営陣のとった行動は、当時アルジェリアで勃発していた独立戦争にサンローランが徴兵されるよう仕向けて行くことだったという。フランス人のやり方ってやっぱりイヤラしいもんだなぁとこういう時つくづく思ってしまうのだけど、やはりこれだけ強い輝きをはなっていた人だからこそ、きっと知らないうちに多くのやっかみも集めてしまっていたのだろう。


そしてついに1960年、かつて「天才」ともてはやされた青年は会社の思惑通りに戦地へと送りこまれ、出征先であっさりとお払い箱になってしまったのだった。寝耳に水の一方的な解雇で会社から裏切られた上、サンローランの身に襲いかかって来たのは、容赦ない軍隊内でのいじめや虐待。精神を病むようになった彼はついに除隊され、ぼろぼろのままパリに帰還した後はしばらく陸軍病院で療養生活を送った。彼はここで大量の薬物投与や電気ショックといった手荒い治療を受けており、本人も後のメンタルや薬物依存の問題はこの陸軍病院での経験が発端だったのではないかと回想しているという(Wikipediaによる)。

 

ここでも母親とピエール=ベルジェの献身的な看護によって次第に健康を取り戻したものの、主任デザイナーには既に別人が収まっており、どっちにせよもう帰れる場所はなかった。

 

…はっ、またもや長文になっているようなので今日はここまで。それではごきげんよう

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