硝子戸

毎日の中で感じたことや興味を持ったことなどを書いていきます。

服飾文化講座「イヴ=サンローラン」⑤

イヴ=サンローランはディオールじゃない

1962年、デビュー第一作を飾った作品の中には、もちろん優雅なソワレや可愛らしいドレスもたくさんあるけれど、特に代表的なものとして登場するアイテムにピーコートがある。


ピーコートなんて多くの人にとって定番中の定番だし、今でこそ別に新しくも何ともない洋服ではあるけれど、実はこのピーコート、もともとはオランダの漁師や船乗りが着ていた防寒着で、後の時代には、その優れた実用性とデザインから海軍の制服にも採用されている歴史を持つ。…つまり、ピーコートはばりっばりの労働着&男物。しかも写真を見みると、なんとパンタロンの上に羽織られていてとっても若くてカジュアルな雰囲気。とてもお洒落にデザインし直されているとはいえ、うーん…この路線、あの惨敗に終わった1960年のディオールで発表したのととても近い。


でもサンローランはあえて、あの時一旦否定された作品を独立後第一回目のコレクションで発表している。

「イヴ=サンローランはディオールじゃない」

ピーコートの発表は、彼の世間に対する強い決意表明だったのかもしれない。

 

ピーコートは海上で長時間過ごす男たちのためにでき上がったとても実用性の高いコートだった。ダブルの前あきが、左右どちらの身頃を上にしても閉まるようになっているのは、風向きによって閉める方向を自由に変えられるようにするため。大きな襟をしっかり立てれば、暴風の中でも仲間の声が聞きとりやすい。(「男のコート」/島崎隆一郎・著/文化出版局による)

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出典/Queety

https://www.queerty.com/some-like-it-haute-16-iconic-yves-saint-laurent-fashions-20150506/peacoat

 

ディオールじゃない、サンローラン自身の作品を見て行こう

よく「ポール=ポワレは何をした人ですか?」とか、「シャネルの功績はなんですか?」なんていう質問がでた場合、「彼はコルセットから女性を解放した人です。」とか、「シャネルは機能的な服装を提案して、女性の自立を促した人ですね。」とか、割合に決まりきった範囲内の答えが返ってくることが多い。「○○○さん=○○○を作った(した)人」という具合に…


じゃぁ「サンローランの成し遂げたことは何ですか?」と聞かれた場合はどうだろう?

残念ながらこの人の場合、先の質問のように何か「単品の発明品」で簡単に答えることはできない。あえて答えるとすれば、現在ストリートで着られている女性の服装、そのほとんど全てになるのだという。


女性向けの革のライダースジャケットやピーコートに始まり、トレンチコートやタキシード(パンツスーツ)、サファリジャケットにエスニック、シースルーのドレス…ともう本当にあげて行くときりがない。

 

彼は自身で全く新しいものを作り出すというよりは、古今東西、ありとあらゆる既存のアイテムや要素をピックアップしてデザインし直し、街を歩くリアルな女性たちのために次々と送り出して行った人だった。それらはディオールでキャリアをスタートした1950年代とは打って変わって大いに受け入れられたが、やがては一時的な流行を超え、一つのスタイルとして女性たちのワードローブや社会におけるファッションの常識の中に定着して行ったのだ。

 

「流行は廃るが、スタイルは残る」まさにこの王道を行った人ともいえるだろう。


特に1960年代後半、サンローランのクリエイションは最も実りの多い季節を迎え、次々に名作を生み出して行くことになる。彼の作り出したスタイルの多くが、なぜ現代女性の服装の基本や定番になって行ったのか?その過程は後にまわすとして、とりあえず講座でも紹介された代表作品たちを足早に見て行こう。

 

1965年 モンドリアンルック

▼この年、サンローランは誕生日に母親からモンドリアンの画集をプレゼントされ、それにインスピレーションを受けてデザインしたドレスだとか。このワンピは有名ですよね!!サンローランとベルジェは芸術に造詣が深く、有名な美術コレクターでもありました。そんな彼にはアートを絶妙にサンプリングした作品は他にもたくさん。

ただ、この時代って著作権とかどうなってたの?ってちょっと素朴な疑問も感じたりするのですが…

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出典/高円寺/阿佐ヶ谷の美容室STYLES

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1966年 スモーキング

多くの代表作の中でも、世間に最も大きな影響を与えたのは、このスモーキングというタキシードスタイルだったのではないでしょうか?テーラードジャケットにパンツの組み合わせ。今では誰もが自然に袖を通す、パンツスーツの原型を作ったのは彼なのです。このスタイルにはただのスタイリッシュな外見以上に大きな意味があったのですが、このお話はまた次回に譲りましょう。

ヘルムート=ニュートンによるすばらしいモード写真。

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出典 / Yves Saint Laurent, French Vogue, Rue Aubriot, Paris, 1975© Helmut Newton Estate

 

1967年 アフリカンコレクション

▼何度も何度も焼き直しされて、繰り返しやってくる流行っていくつもあるものですけど、その内の一つ、こういったエスニックスタイルを最初にストリートに放ったのも彼なのだそうです。キラキラと輝く大粒のガラスビーズが華やかな、今のエスニックよりもかなり豪華、かつ過激な印象ですが…

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出典 / PHAIDON

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60年代風ミニ。前出のものと比べると、かなりさらっと着こなせそうな一枚。モデルは皆さんご存知のツィギーです。サンダルも素敵ですし、当時「現代」を最も象徴していたアイテム、テレビと組み合わせたアイデアが新鮮ですよね!

私の母親は来日中のツィギーに、人気のない百貨店の階段で偶然すれ違ったことがあるといっていましたが本当でしょうか(笑)…?外国人モデルだから、すごく大きい人だと思っていたけれど、実物はずっと華奢で驚いたんだそうです。

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出典 / ati

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1968年 シースルー・サファリルック・パンタロン

5月革命が起こり、街ではウーマンリブ運動の女性たちがブラジャーを積んで焼いている…そんな激しい嵐のさなかにシースルードレスを発表。ストリートで爆発していたエネルギーのうねりをリアルに呼吸しながら、彼独特の感性で作品に投影していたのがわかります。

サンローランはスノッブを相手にしたハイファッションをやっているデザイナーでありながら、同時に彼自身60年代を生きる若者でもあった、そんな矛盾した要素を併せ持った人だったんですね。そして、決して交わることのなかったその二つの世界を融合させうる、見事な手腕を持っていたのです。

とはいえ、さすがにこのシースルーの作品は、当時相当スキャンダラスな評価をされてしまったようです。

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出典 / latest-wrinkle

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▼1970年の秋冬コレクションで発表されたシースルー。こちらは背中からヒップの上部が透けるようになっています。これは「見たことがある!知ってる!」という方多いのではないでしょうか。現代もっとも評価の高い作品のうちの一つなのだそう。ホント、まるで芸術作品を眺めているかのような気分になってしまいます…こちらも撮影はヘルムート=ニュートン。彼はサンローランと一緒に仕事をしていることが多いですね。

パリにルサージュというレースや刺繍の老舗工房があり、サンローランのクリエーションを支えていました。この背中にはめ込まれているレースもルサージュの作品です。

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 出典 / THE ESTATE OF JEANLOUP SIEFF 

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▼こちらも有名な作品、サファリルック。元々は狩猟服として男性に愛用されていたアイテムを、男女どちらでも着られるユニセックスな街着としてデザインし直したものです。ただこの写真のジャケット、ユニセックスどころかかなりセクシーな感じがしますね。

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出典 / Splendid Habitat

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 ▼こちらの写真ではサンローラン本人(左側の男性)も着用しています。先ほども書いたように、性差別撤廃を訴えるウーマンリブ活動などに伴い、60年代後半は「ユニセックス」ということがファッションにおいてひとつのキーワードになっていた時代です。こちらのスーツはよりはっきりとそれが感じられる作品になっていると思います。

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出典 / You ain't heard nothin' yet!

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▼1966年発表のスモーキングをより日常的な形に展開したパンタロンスタイル。特に手前のスーツはとても有名で、年表などにもよく出てきますね…。

実はこれより以前から、すでに英国や日本でも勇敢なモッズ少女たちがこぞってパンツをストリートではいていたのですが、サンローランの手にかかると、この通りエレガントなモード服に早変わり。こうなって来ると、大人の女性たちの「着てみたい」も一気に高まって来るというわけです。

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出典 / LIFE

 

 …しかし、これだけのものを1年間で一気に放ってしまう彼ってすごすぎますよね。創作エネルギーが絶頂に達していたのかもしれませんが、本当にネタの出し惜しみのない人だったんですね!

 

さてあともう一つ、1976年の作品もここに載せたかったのですが、あまりにも長くなって来ているのと、時間が迫って来たのとで、一旦ここで切ろうと思います。半端ですみません。

それではごきげんよう。さようなら。

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服飾文化講座「イヴ=サンローラン」④

今日ブログのアクセス数を見ると、ずっと0だったのが何人か訪問して頂いているのを初めて発見し、嬉しく思いました。ありがとうございます。

 

服飾講座の記事に関しては、②に画像のリンクを加えたり、③にサンローランの精神や依存症の問題に関する修正や加筆も加えました。また、サンローランとベルジェは、確かに二人ともディオールの葬儀に出席しているので遭遇こそしていたものの、実際お互いに面識を持って強烈に引かれ合った最初の出逢いは、ディオールの死後 初のコレクションから数日後に開かれた、ハーパーズバザーのディレクター主催のディナーパーティーだった(Musée Yves Saint Laurent Paris の Learn about Yves Saint Laurent「Pierre Bergé: The Meeting 」より)ということで、それも修正しておきました💦

 

講座では、全ての内容がさらっと流れてゆくので、あとから文章化するために色々な資料を読んで情報を補って行くことになるんですが、どうしても書いた後から知らない事実が分かったりして、そのため、しばしば過去に書いたものを直したりしています。ご了承ください〜 (>_<)

 

独立起業へ。ついに自分のお店を開く

さて、次々に襲いかかった理不尽なできごとで一時精神を害していたサンローラン。しかし、経済的な洞察力に優れたベルジェがパートナーになったことで、彼の人生には現実世界で戦って行くための「強さ」が搭載され、この後独立開業への道が一気に開けて行こうとしていた。

 

▼メゾンを設立した頃のサンローラン(左から二番目)とベルジェ(右端)

(出典 /gettyimages.com . )


まず、二人はディオール社に対してサンローランの一方的な解雇は違法だとする裁判を起こし、当時のお金で48,000ポンドを勝ち取ったという。やり手のベルジェは更にアメリカの実業家 J. マック=ロビンソンを説き伏せて700,000ドルもの投資を集め、1961年にはとうとう念願だった自分のメゾンを設立してしまう。場所はパリ16区のスポンチニ街。

 

この大胆でスピーディーな展開は、芸術家気質のサンローラン一人では到底なし得られなかったものだ。以降、経営やショウの切り盛りなど実務面はベルジェがすべて担当し、サンローランはその支えの中、雑事に惑わされることなくクリエイションに没頭することができた。

 

「イヴ=サンローラン」の名前はディオール時代、すでに有名になっており、1962年に開かれた第一回目のショウにはヨーロッパのみならずアメリカからもそうそうたるセレブたちがつめかけ、再びの大成功となった。

 

▼独立後初のショウが一部見られる動画です。講座でもこれを見せて頂きました。現在行われている、ブランドの広告塔としてのファッションショウとは異なり、本当に洋服を注文したい人が真剣勝負で見に来ていた頃のものです。狭い店内は音楽もなく、顧客たちは好き放題の感想をつぶやきながら食い入るようにドレスを見ています。後半はジャクリーン=ケネディの妹、リー=ラジウィル(当時、ポーランドの王子と結婚していたから?「プリンセス」として紹介されている)によるサンローランヨイショのお話や、女流作家エドモンド=シャルル=ルーによる彼の第一印象などが収録されています。リーさん以外の皆がサンローランは着にくいとか、脱ぎにくいとか言っているのがちょっと面白いです。既製服が徐々にファッションの重要なテーマになって来ていたこともうかがえます。


Yves Saint Laurent, 1962

 

えー、またしても長文化して来ているため、続きは次回に譲ります。それではごきげんよう

服飾文化講座「イヴ=サンローラン」③

今回からは他サイトのリンクも活用してみることにしたよ。

 

若さや時代の流れを一生懸命取り入れた


さて、ディオールの主任デザイナーとして衝撃のスマッシングデビューを果たしたのが1958年。初めの内は顧客や経営陣からも絶賛の嵐で受け入れられていたサンローランだったが、何度かコレクションを経るにつれ、次第にセーターのようなニットの袖がくっついたミンクのコートや、クロコダイルで作ったライダースジャケットなど、最高の素材を使いながらも若く、カジュアルな要素の入ったアイテムが発表されるようになって行く。今までのディオールなら考えられなかったような新しいラインの誕生だ。優雅全盛の1950年代がちょうど終わりを告げ頃だった。

 

▼ニット帽+なんとニットの袖が合体した毛皮のコート。

 のほほんとしたアウトドアのシーンで着られている。でも足下はパンプスでエレガントに!

 (出典/フレンチヴォーグ 1960年10月号より 写真/Henry Clarke)

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▼1960年秋冬に発表されたライダースジャケット

 今見ると全然ハードな感じもないし、普通にかわいいのだけど(笑)

doyle.com

 

モードの鉄則を破る

しかしそもそも、モードとは上から下へ降りてゆくものであり、流行はいつだって文化の中心である上流階級で生まれて来た。それらを都会の市民たちがこぞって真似た後、今度はようやく旅行者の見聞や手紙、印刷物などを通じて、行商人が運ぶ古着と一緒にゆっくりと地方へ広がって行く…。

 

17世紀のある流行スタイルがそのまま民族衣装として田舎に定着してしまっている例はよくあることだし、18世紀の旅行者の手紙には、真っ白におしろいを塗って仕事に精を出す木こり、パニエの入ったドレスで畑を耕す娘の姿などが、驚きと軽蔑を持って描写されていたりもする。

 

そう、いつだって下々の者が上流を真似ることがモードの鉄則であり、間違っても上流の者が通りにあふれる若者や労働者の真似ごとをするなんて言語道断だったのだ。しかしサンローランがキャリアをスタートしたこの時代、長い間絶対的だったこの流れが徐々に変わろうとしていた。まだ20代前半のサンローランは、こういったフレッシュな空気を取り入れたアイテムを一生懸命提案していたものの、それに対する保守的な顧客からの反応は冷ややかなものだった。

 

 

やりたいことをやってただけなのに、会社から抹消された!


コレクションがカジュアル化していくことに懸念を示していた経営陣のとった行動は、当時アルジェリアで勃発していた独立戦争にサンローランが徴兵されるよう仕向けて行くことだったという。フランス人のやり方ってやっぱりイヤラしいもんだなぁとこういう時つくづく思ってしまうのだけど、やはりこれだけ強い輝きをはなっていた人だからこそ、きっと知らないうちに多くのやっかみも集めてしまっていたのだろう。


そしてついに1960年、かつて「天才」ともてはやされた青年は会社の思惑通りに戦地へと送りこまれ、出征先であっさりとお払い箱になってしまったのだった。寝耳に水の一方的な解雇で会社から裏切られた上、サンローランの身に襲いかかって来たのは、容赦ない軍隊内でのいじめや虐待。精神を病むようになった彼はついに除隊され、ぼろぼろのままパリに帰還した後はしばらく陸軍病院で療養生活を送った。彼はここで大量の薬物投与や電気ショックといった手荒い治療を受けており、本人も後のメンタルや薬物依存の問題はこの陸軍病院での経験が発端だったのではないかと回想しているという(Wikipediaによる)。

 

ここでも母親とピエール=ベルジェの献身的な看護によって次第に健康を取り戻したものの、主任デザイナーには既に別人が収まっており、どっちにせよもう帰れる場所はなかった。

 

…はっ、またもや長文になっているようなので今日はここまで。それではごきげんよう

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服飾文化講座「イヴ=サンローラン」②

21歳の青年に託された「フランスを救え!」


まぁ結局、サンローランはクリスチャン=ディオール急死後の大抜擢により、まだ大学生そこいらの年齢でいきなりフランスを代表するメゾン、ディオールの主任デザイナーになってしまったというお話。


なぜこんな若者の抜擢を経営陣が許したのかというと、ディオール氏の生前からの強い意思─自分の次を継ぐのは絶対コイツだ…─が尊重されたからだった。

でも、これは実際とんでもないことだったと言える。何故なら1947年に「ニュールック」で大ブレイクしてから快進撃を続けた結果、1940年代の終わり頃にはディオール社の売り上げはパリのファッション部門における総輸出額の75%、ファッションに限らないフランス全体の総輸出額で見ても、なんと5%もの額を担っていたのだから。信じられないような話だけど、ディオール氏の死とそれによるチーフデザイナーの交代劇は、単にメゾン内輪だけの問題ではなく、ほとんど「フランスの問題」だったのだ。


ディオールのお葬式で遭遇していた、次の運命


しかし天才青年だったサンローランは「トラペーズライン」で交代後第1回目のショウを見事大成功に終わらせた。ディオールの再来と絶賛され、これでフランスは救われたと誰もが胸をなでおろした。ただ、サンローランはストレスに弱い神経質な人…そんなキャラなのに、個人的にはどうやってこんな人生最大のプレッシャーに大勝利を収めたのか不思議な気もする。若い頃のサンローランはインタビューでも「2週間で1,000枚のスケッチを描いた」とか自信ありげに答えていて、とても堂々として見えるのだけど…

 

サンローラン自身が生まれつき相当シャイで繊細な人柄だったことは確かなことだけど、しばしば陥っていた病的な精神不安定や薬物依存などは後の陸軍病院で受けた治療も深く影響していたと言われ、本来の彼はもっと健康的な人だったのかもしれない。

 

 ▼トラペーズ(trapèze)は台形のこと。戦後、Iライン、Hライン、Aライン…と手替え品替えのシルエットで世界を席巻したDiorのやり方を忠実に踏襲していた。

http://review.siu.edu.vn/Upload/Siu15/Yves-Saint-Laurent-2.jpg

(出典 review.siu.edu.vn)

 

▼1958年のParis Match。モデルたちと一緒に自らも表紙を飾った。うーん、まさに台形そのもののシルエット。ちょっと着る人を選びそうな気もするのですが(笑)

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(出典 / パリマッチ 1958年3月号)

 

そして更にこの成功の数日後 ─1958年の2月、フランス版 ハーパーズバザーのディレクター主催で開かれたディナーパーティで彼は「運命の男性」ピエール=ベルジェと出逢い、強く惹かれ合うことになる。実は前年の秋、国葬級だったディオールをお葬式で二人は既に遭遇していたはずだが、実際に深く会話を交わし、恋に落ちたのはこの時だった。

 

この「運命の男性」との出逢いは、ディオールでの大成功と同時に舞い込んだ大きな喜びであったと同時に、輝かしいエリートコースのままディオールには居られなくなる…やがて二年後に訪れる、過酷な試練と新たな成功へ導かれるための伏線でもあった。まるで死の3年前、ディオールが自分の後継ぎと見事落ち合えた時のように…。

 

─自分の本当の活躍の場は実はディオールじゃなかった!

 

ヨーロッパ中からの賞賛の嵐覚めやらぬ中、まだ21歳の彼にとってそんな運命は知る由もなかったのだった。

 

▼運命の出逢いになったディナーパーティでの様子。35番と書かれた丸テーブル一番奥の左側で、婦人と談笑しているのがサンローラン、左手前でカメラ目線の男性がベルジェ。ベルジェの回想によるとサンローランとの出逢いや激しい恋は予期せぬものであったという。彼はこの数ヶ月後、8年間も寄り添い、サポートを続けた画家 ベルナール=ビュッフェの元を去り、その後はサンローランに全てを捧げた。

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(出典 / https://museeyslparis.com/

 

っと…またもやだらだら書いてしまって長くなりそうなので、今日はもうここまで!ごきげんよう

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服飾文化講座「イヴ=サンローラン」①

博物館で定期的に行われている、服飾文化講座に行って来た。隔月で毎回様々なデザイナーを取り上げて専門家が解説してくれる上、館の所蔵作品も間近に見せてもらえるという貴重な催し物だ。今回のテーマはイヴ=サンローラン。

 

実はあまり親しみのなかったデザイナーだったサンローラン

大昔から続くとても有名なブランドだけど、世代なども関係あるのか、自分的には今まであまりピンとは来ないお方だった。自分が20代の頃、雑誌で何度も特集を組まれて話題になっていた老舗ブランドは断然シャネルやグッチ、エルメス、もしくはジョン=ガリアーノにバトンタッチしたばかりのクリスチャンディオールといった所。イヴ=サンローラン氏は当時もまだ存命で、現役デザイナーとして最晩年の仕事に打ち込まれていた訳だけれど、20代の自分にとってのリアルな興味としてはまぁ化粧品くらい。

 

ただ、ここ数年はバッグや財布なんかの小物を30代以上向けの雑誌ではよく見かけるし、ファッションピープルの「これから10年先も着ていたいアイテム」の中にトレンチコートが取り上げられたりしてて、最近確実に巻き返しを図っているなぁ、と思う。アラフォーの自分にとっても、魅力的な商品が多いと感じる。

 

帝王と皇帝の不思議な縁

そんなイヴ=サンローラン氏のマニアックなお話を聞きに行き、今回かなり親近感や興味がわいた。彼が18歳でクリスチャン=ディオール本人に見初められてアトリエに入社し、3年後、急死したディオール志をついでたったの21歳でデザイナーになったのは有名なお話。

 

見初められるきっかけとなった国際羊毛事務局主催のコンクール、ドレス部門で彼は見事優勝をしている訳だけど、実は同年にこのコンクールのコート部門で優勝しているのが、学校でも同級生だったというカール=ラガーフェルドだった。後にモードの「帝王」と呼ばれたサンローランと、「皇帝」と呼ばれたラガーフェルド。まさにスタートラインの時点から、もう宿命的なライバル、強い縁のもとパリで出会っていた二人ということになるだろう。

 

同性愛者であることや、多産系の作家であること、デザイナーとしての息の長さなど、二人には共通点も多い。また、ラガーフェルドがシャネルのメゾンを長年率い、その精神を表現し続けている一方で、サンローランは若い頃、存命中のガブリエル=シャネル本人から孫のようにかわいがられていたという(逆に同じ60年代の綺羅星、ピエール=カルダンなどは非常に彼女から嫌われていたという。理由はちょっと不明。)。二人とも、違う形ではあるけれどもシャネルという存在から愛された男性たちでもあったと言えるかもしれない。

 

ただし、ファッションジャーナリストの故・大内順子さんは二人を「サンローランは弱い天才」「ラガーフェルドは強い天才」と評している(「大内順子のハッピー・セオリー」)。仕事のプレッシャーなどでしばしばドラッグに手を出さなければならず、母親やパートナーであったピエール=ベルジェらの献身的な支えでようやく仕事が成り立っていたサンローラン。自らの強靭な意思で自身も仕事も律し続けるドイツ人のラガーフェルド。共通点も多い一方で、二人のキャラクターはまったく反対だったのだ。

 

はてさて、なんだか今回はカール=ラガーフェルドとの比較ばかりに終わってしまったけれど、長くなりそうなので続きはまた次回に。今日はここまで!ごきげんよう