硝子戸

毎日の中で感じたことや興味を持ったことなどを書いていきます。

服飾文化講座「イヴ=サンローラン」②

21歳の青年に託された「フランスを救え!」


まぁ結局、サンローランはクリスチャン=ディオール急死後の大抜擢により、まだ大学生そこいらの年齢でいきなりフランスを代表するメゾン、ディオールの主任デザイナーになってしまったというお話。


なぜこんな若者の抜擢を経営陣が許したのかというと、ディオール氏の生前からの強い意思─自分の次を継ぐのは絶対コイツだ…─が尊重されたからだった。

でも、これは実際とんでもないことだったと言える。何故なら1947年に「ニュールック」で大ブレイクしてから快進撃を続けた結果、1940年代の終わり頃にはディオール社の売り上げはパリのファッション部門における総輸出額の75%、ファッションに限らないフランス全体の総輸出額で見ても、なんと5%もの額を担っていたのだから。信じられないような話だけど、ディオール氏の死とそれによるチーフデザイナーの交代劇は、単にメゾン内輪だけの問題ではなく、ほとんど「フランスの問題」だったのだ。


ディオールのお葬式で遭遇していた、次の運命


しかし天才青年だったサンローランは「トラペーズライン」で交代後第1回目のショウを見事大成功に終わらせた。ディオールの再来と絶賛され、これでフランスは救われたと誰もが胸をなでおろした。ただ、サンローランはストレスに弱い神経質な人…そんなキャラなのに、個人的にはどうやってこんな人生最大のプレッシャーに大勝利を収めたのか不思議な気もする。若い頃のサンローランはインタビューでも「2週間で1,000枚のスケッチを描いた」とか自信ありげに答えていて、とても堂々として見えるのだけど…

 

サンローラン自身が生まれつき相当シャイで繊細な人柄だったことは確かなことだけど、しばしば陥っていた病的な精神不安定や薬物依存などは後の陸軍病院で受けた治療も深く影響していたと言われ、本来の彼はもっと健康的な人だったのかもしれない。

 

 ▼トラペーズ(trapèze)は台形のこと。戦後、Iライン、Hライン、Aライン…と手替え品替えのシルエットで世界を席巻したDiorのやり方を忠実に踏襲していた。

http://review.siu.edu.vn/Upload/Siu15/Yves-Saint-Laurent-2.jpg

(出典 review.siu.edu.vn)

 

▼1958年のParis Match。モデルたちと一緒に自らも表紙を飾った。うーん、まさに台形そのもののシルエット。ちょっと着る人を選びそうな気もするのですが(笑)

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(出典 / パリマッチ 1958年3月号)

 

そして更にこの成功の数日後 ─1958年の2月、フランス版 ハーパーズバザーのディレクター主催で開かれたディナーパーティで彼は「運命の男性」ピエール=ベルジェと出逢い、強く惹かれ合うことになる。実は前年の秋、国葬級だったディオールをお葬式で二人は既に遭遇していたはずだが、実際に深く会話を交わし、恋に落ちたのはこの時だった。

 

この「運命の男性」との出逢いは、ディオールでの大成功と同時に舞い込んだ大きな喜びであったと同時に、輝かしいエリートコースのままディオールには居られなくなる…やがて二年後に訪れる、過酷な試練と新たな成功へ導かれるための伏線でもあった。まるで死の3年前、ディオールが自分の後継ぎと見事落ち合えた時のように…。

 

─自分の本当の活躍の場は実はディオールじゃなかった!

 

ヨーロッパ中からの賞賛の嵐覚めやらぬ中、まだ21歳の彼にとってそんな運命は知る由もなかったのだった。

 

▼運命の出逢いになったディナーパーティでの様子。35番と書かれた丸テーブル一番奥の左側で、婦人と談笑しているのがサンローラン、左手前でカメラ目線の男性がベルジェ。ベルジェの回想によるとサンローランとの出逢いや激しい恋は予期せぬものであったという。彼はこの数ヶ月後、8年間も寄り添い、サポートを続けた画家 ベルナール=ビュッフェの元を去り、その後はサンローランに全てを捧げた。

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(出典 / https://museeyslparis.com/

 

っと…またもやだらだら書いてしまって長くなりそうなので、今日はもうここまで!ごきげんよう

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