硝子戸

毎日の中で感じたことや興味を持ったことなどを書いていきます。

服飾文化講座12

引き続き、既製服ラインの誕生についてのお話です♫

 

デザイナーとしての想いとビジネスマンとしての野望と─サンローラン・リヴゴーシュ

さて、話は戻って1960年代。

 

人々の生活や服装観が急激に変化してきたことより、世の中のファッション業界に対する要求は、1着の完成された美的作品ではなく、個人が自分自身を体現するためのピースを豊富に提供してほしい─そういう風潮になってきたのは前回にも書いたとおり。

 

当然、一人一人の体つきに合わせながら丹念に微調整を繰り返し、大量の時間とコストを食うオートクチュールでは、この要求に応えられそうにない。経済的に発展した大量生産大量消費の世界で大衆が望んでいるのは、今の流行にぴったりでおしゃれな、安くて、売り場からすぐさま持って帰って着られてる、まさに「ウマい・早い・安い」の洋服だったのだ。

 

そんな1960年代当時、オートクチュール界は今よりまだずっと活況ではったが、経営を担当しているベルジェにとってみれば、オートクチュールのシーズンによってゆらぎやすい収入を、何か他の収益源で補わなければならないという考えもあった。

 

かつて同じディオール店で働いていたピエール・カルダンは、1962年、すでに百貨店へ「カルダン・コーナー」なるものを設け、自身のクチュール服の型紙や仕立てを単純化し、まとまった数を作ることで値段を何分の一にも抑えたコピー商品を売って大成功を収めていた。要するに、ラグジュアリーブランドによる既製服ラインの走りである。

 

▼先週紹介した、サンローランのメガネなしお写真を元に製作されたアンディーウォーホールの版画。こっちは単独のバージョンですね。手前のおじいさんは、サンローランのパートナー、ピエールベルジェ。パリにある彼の事務所で2015年の11月に撮影された写真。亡くなる2年ほど前のようです。

https://citizen.co.za/wp-content/uploads/sites/18/2017/09/1871c97297703bf951e49442fde2fb184ae8462b.jpg?x68991

(出展:The Citizen/Hard-headed ‘angel’ behind Yves Saint Laurent empire dies aged 86  https://citizen.co.za/news/news-world/1645517/lifestyle-france-fashion-aids-berge/ ) 

 

世の中の、もっと幅広い層の女性たちに自分の服を着てほしい。オートクチュールが基本にありつつも、そこにちゃんと現代生活のリアルにが反映されたものを提供したい。

 

デザイナーとしての想いとビジネスマンとしての野望…そんな双方の願いを実現させるべく、ついに1966年9月26日「サンローラン・リヴゴーシュ」がオープンした。場所はパリ、セーヌ川シテ島の左岸(リヴゴーシュ:Riv Gaucheとは左岸の意味)エリアで、ただでさえ、名門・ディオール出身のクチュール王子が既製服に手を出すなんてと驚かれたのに、出店した先は、なんと古本屋やギャラリーなどが建ち並ぶ若者の街。

 

▼サンローランリヴゴーシュのオープニング告知。かっこいいです!

https://static01.nyt.com/images/2011/03/05/fashion/04runwayysl/04runwayysl-articleInline.jpg     (出展:On the Runway https://runway.blogs.nytimes.com/2011/03/04/ysl-and-the-spirit-of-the-60s/

 

3時間待ちの行列

多くの人を驚かせた決断ではあったが、店はオープン当初から大繁盛しすぎて大変なことに。洋服を買いたい客が殺到して入場制限がかかり、店の外で3時間待ちの行列ができる異常事態になったのだ。

 

既製服自体は欧米では元々19世紀からかなり発達しており、ヨーロッパの一流メゾンで発表されたデザインは巧みにコピーされて、百貨店などで売りさばかれていた。けれど根本的に違うのは、サンローランやカルダンら一流デザイナーたちが、自分たちのクチュールラインのオリジナル作品を元に、自らデザインや考えの本質的な部分を忠実に取り出してプレタポルテに再現してくれるというところ。単に市場調査によってはじき出された「これが売れる」をもとに、表面的にコピーされただけのものとは似て非なるものだった。

 

あの1着100万円をくだらない作品のスピリットを、数分の一の値段で自分も直接身にまとえる…しかも仕立て上がりに何週間も待たなくていい。ブランドへの憧れと利便性を同時に満たしてくれる商品に、女性たちは殺到したのだ。

 

 ▼オープン間もない頃のパリのブティック(写真上)とその内部の様子(写真下)。この後、お店はフランチャイズとなり、NYやロンドンなど他の大都市にもオープンしていきました。未来的なインテリアですよね。

http://static3.refinery29.com/bin/entry/430/x/276825/saint-laurent.jpg

 

▼さて、当時のリヴゴーシュがどれくらいの値頃感だったのかはちょっとわかりかねますが、現在の公式オンラインショップの情報によりますと、例えば「スモーキング」のようなパンツスーツが欲しくてジャケットとパンツを買ったと仮定して、お値段 50万円台半ばくらい(ジャケット40万円ちょっと+パンツ 10万円ちょっと)のようです。オートクチュールのスーツが 200万円前後としますと、4分の1ほどで買える計算になります。(うーん…にしてもお高いっ!!)

http://1.bp.blogspot.com/-12s6pI435Ro/VAwtb5FS0nI/AAAAAAAADLc/VjiApIiSZNU/s1600/06talk-hebey3-slide-1RO2-jumbo-700x508.jpg

(出展:The Shop Locator  THE SHOP LOCATOR: Vintage 1966-1970. Yves Saint Laurent Rive Gauche boutiques. Paris-Nice

 

1972年のあるインタビューで、サンローランは既製服に関してこんな話をしている。


「今の服装における利便性って何かって言ったら、スカート、パンツ、シャツ、セーター、コート、レインコートを持ってて全部ミックスしてしまうってことだよね…で、それってお金もそんなにかからないんじゃないかな。オートクチュールの世界では、何もかもが高価だけどね。既製服なら何着もの洋服をとっかえひっかえして遊べるんだ。オートクチュールでは無理なことだけど。」

 

“What is modern in clothes today is to have a skirt, pants, shirt, sweater, coat, and raincoat and to mix everything…[but] the parts of the mix cannot be expensive. In couture everything is expensive. With ready-to-wear you can play around with the many parts of clothes and change them. In couture you can’t play with clothes.”
(出展:Yves Saint Laurent, quoted in 1972 interview transcript, Folder 16, Box 10, The Nina Hyde Collection, FIT Special Collections Library.)

 

▼おのおの個性を表現したコーディネートで街を歩く。サンローランと彼のデザインしたドレスをまとったモデルたち。自由でリラックスした雰囲気が漂う。Jean-Luce Huré による写真、1972年4月25日。

http://exhibitions.fitnyc.edu/blog-ysl-halston/wp-content/uploads/sites/15/2015/04/faar_ysl_01_h.jpg

 (出展:Yves Saint Laurent + Chanel  http://exhibitions.fitnyc.edu/blog-ysl-halston/2015/04/16/yves-saint-laurent-chanel/

 

クチュールラインがあくまで主であり、既製服ラインはその流れを受けた妹版…そういった基本は確かにあったが、リヴゴーシュは実際、パリコレに出す前のアイデアを試す実験場にもなっていたようだ。1970年代に発表されたロシアンコレクションやシノワズリのコレクションも、いったんリヴゴーシュでテストした後にパリコレで発表されている。オートクチュールの世界では、客がファッションで気楽に遊べないだけでなく、デザイナーの方でも発表に対する重圧がありすぎて、自由気ままにクリエイションを楽しむわけに行かなかったのだ。

 

もしもオートクチュールに未来があるとすれば─  既製服から、ライセンスビジネスの時代へ

世界に名だたるパリ一流メゾンによる、既製服ビジネス。そしてその大成功。それは当時の大きな出来事だったが、まだそこにはサンローランやカルダン本人といった、デザインや世界観を直接率いるリーダーが存在しているビジネスだった。

 

しかしこの後、ファッションビジネスの世界はさらに急スピードで変容を続けていた。やはりカルダンが先駆者となった、ライセンスビジネスの登場である。

 

こうなってくると、メゾンのロゴマークとイメージを使う権利だけが売買され、あとはその権利を買い取ったブランドホルダーが、そのイメージにそぐわぬようマーケティングをし、付加価値をコントロールしながら、ロゴ入りの商品を売っていく。

 

 ─もしもオートクチュールに未来があるとすれば、それはもはやデザイナーなんて存在しない、

  香水や大量生産のアクセサリーを販売するための、ライセンスビジネスになるのではないか。

 

彼もそういう思いを抱いていたようで、現代社会の大量生産大量消費をテーマにしていたポップアートの芸術家、ウォーホールのためにポーズをとったというのも偶然ではなかったんじゃないだろうか。

http://www.icon-icon.com/sites/default/files/styles/image_detail/public/field/image/ysl_0.jpg?itok=H9_Zhkpa

(出展:icon-icon.com / The Portrait of Yves Saint Laurent by Andy Warhol

http://www.icon-icon.com/en/design-art/portrait-yves-saint-laurent-andy-warhol

 

https://revolverwarholgallery.com/wp-content/uploads/picture4-6-600x496.png

(出展:Evolver Warhol Gallery.com https://revolverwarholgallery.com/canadas-largest-andy-warhol-exhibit/

 

実際ベルジェも既製服ビジネスだけにとどまらず、洋服で確立した強力なブランド力を背景に、香水やバッグ、アクセサリーと次々に取り扱い商品を広げ、グループを大きくしていった。

 

そして彼らも1992年、ブランド運営に2人の影響力をしっかり残す形でイヴ・サンローランの商標を売却し、大きな富を得ている(しかしベルジェはこのときインサイダー取引を行ったとして罰金の支払いを命じられている…)。その後も商標の持ち主は変わったが、サンローランは2002年春までデザイナーとして仕事を続け、ベルジェも彼の引退まで一緒に社長にとどまり、寄り添い続けた。

 

富の行方

彼らの稼ぎ出した富は、2人のアートへの情熱の対象であるアート作品や古書の収集など、様々な形で財産をなした。特にサンローランの死後、2009年に売却された2人のアートコレクションはなんと3億ユーロもの値をたたき出し、大きな話題を呼んだ。かねがねから芸術やアーティストたちに対して理解を示し、同性愛者の権利推進に力を貸していた博愛主義者のベルジェだったが、彼はそれをほとんど全額エイズ研究のために寄付している。

 

そして値のつけようのない、もうひとつのかけがえのない財産─

天才・イヴ=サンローランのすべての功績と、伝説となった彼らの人生のメモリーを保存する活動も2人の引退と同時に、ベルジェ財団が設立される形で始まった。

 

引退から5年後の2007年、サンローランはついにレジオンドヌール勲章を授与されたが、翌2008年6月1日、パリの自宅で息を引き取った。71歳だった。一方、ベルジェの方はファッション界引退後も政治や文化の世界でパワフルな活躍を続ける傍ら、ライフワークとして財団のプロジェクトを推し進め続けた。

 

そして2017年、改修されたかつてのメゾンでとうとう Musée Yves Saint Laurent Paris が開館。サンローランの死から約10年、人生の集大成だった博物館オープンのこの年、ベルジェも86歳で亡くなった。プライベートでの恋人関係は、既に1970年代後半に破綻していた彼らだったが、無二の親友・パートナーとして、最後の最後までサンローランを誠実に支え続けた人生だった。

 

https://s3-eu-west-1.amazonaws.com/musee-ysl-paris/images/_default_2/FPBYSL-01.jpg

(出展:https://museeyslparis.com/en/foundation

 

財団はパリ以外に、マラケシュにも Musée Yves Saint Laurent Marrakech をオープンしている。マラケシュはモロッコにある2人が愛した別荘のあった場所で、「色の魔術師」といわれた彼は「マラケシュが私に色を教えてくれた」と断言しているほど、クリエイションに大きな影響を与えた土地だ。

https://www.museeyslmarrakech.com/wp-content/uploads/2017/10/DSC_4970.jpg

(出展:A museum entirely devoted to the work of the legendary fashion designer Yves Saint Laurent in Marrakech, Morocco. - Yves Saint Laurent Marrakech museum

 

別荘自体もJardin Majorelleとして、誰もが訪れることのできる施設になっている。

http://jardinmajorelle.com/ang/wp-content/uploads/2015/05/jardin-studio-920x342_c.jpg

(出展:http://jardinmajorelle.com/ang/

 

資料の保存展示以外にも、若手アーティストのパトロネージュなども行っている。

 

 

さて、いつも通りものすごい長文になってきているので今日はここまでです。

これで一応、サンローランのお話は終わりたいと思います。なんだか、本当は文章量なんかももっといろいろ配分して考えるべきだったと思うのですが、実際書いてみるとよくわからず、だらだらと長くなってしまいました(笑)が、おつきあいいただきました皆様、今まで本当にありがとうございました♫

 私もその内パリやモロッコに行ったら、是非訪れたいですね。

それではごきげんよう

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